青山・表参道界隈の大名屋敷
広大な武家屋敷の隙間で悲喜こもごもの庶民たち
江戸時代末期の江戸の土地利用割合は、大名や旗本などの武家地が約70%、寺社地が15%で残りの15%に町人が住んでいたそうです。
江戸末期の絵地図を眺めていると当社のある青山表参道の辺りはまさに大名と武家地がほとんどです。現代の一般市民として頭では納得しますが、庶民はどこに住んでいたんだろうと判然としない気分です。
お寺は昔からほぼ同じ処にあるので昔の位置と今を比べる目安になります。
青山界隈で最も賑わう表参道。その東の奥にある善光寺は気づかない人が多いと思いますが、江戸の初めころからここにありました。また骨董通りと六本木通りの角にある長谷寺も格好の目安です。もっとも両寺は今よりずっと大きな敷地だったようです。
ざっくりですがその善光寺を四辺形の角にして、表参道通りのケヤキ並木を下って原宿のキャットストリートの手前まで。もう一辺は青山通りを赤坂方面に向かって外苑西通り辺りまで。渋谷区神宮前3丁目と4丁目の広大な敷地は、安芸広島藩浅野家42万6千石の下屋敷でその内の現在都営団地の辺りは分家の浅野家の上屋敷です。その北側に遠江浜松藩6万石井上河内守の下屋敷で、井上は幕府の老中も務めたそうです。ここに今は何千人もの人が暮らして仕事をしていますが、この広大な土地がたったこの3家で占めているのが驚きです。
骨董通りの西側は青山学院ですが、ここは約4万坪あり伊予西条藩松平3万石の上屋敷です。 また青山通りを挟んで向かい側に国連大学などのある広大な地は40年ぐらい前は都バスの車庫でした。ここも含めて骨董通りから宮益坂の幅で明治通り辺りまでの約5万坪が京都山城淀藩の稲葉家10万2千石の下屋敷。敷地の中に池もあったようです。
当社のある南青山5丁目から7丁目辺りまでは大阪河内丹南藩1万石高木家の下屋敷で4万5千坪もあり、その中には根津美術館の敷地も含み、今でも高木町と呼ばれています。
大山道と言われた青山通りですが、外苑辺りから骨董通り付近まで百人町と言われる武家の屋敷がずらりと並んで、庶民の家は見つけることが出来ません。隠田村の畑の中に小さな四角の印があるのが百姓家と思われます。
また下町の日本橋辺りに名前のない区画がある処がいわゆる町民と言われる一般人が住んでいたんでしょう。昭和に生まれてよかった!