青山通り
1992年に南青山・骨董通りの中ほどで創業して早や25年が過ぎてしまいました。
東京で骨董通りと云うと、かなりの人が知っていますが、東京以外ではあまりなじみがないかも知れません。それに比べ骨董通りが接する青山通りはポピュラーです。なんといっても、表参道と青山通りはメジャーですね。
青山通りと普段は呼んでいますが、ここは国道246号線の一部です。
ニィ・ヨン・ロク(国道246号線)はここから神奈川県を通って静岡県の沼津迄120キロ以上もあります。
その246の内で、皇居のお堀端にある三宅坂を起点に、渋谷までが青山通りと呼ばれ、渋谷から多摩川までが玉川通りと呼ばれています。
起点の三宅坂は、江戸時代に田原藩(愛知県田原市)一万二千石の大名の三宅家の上屋敷があったことから三宅坂と呼ばれたそうです。三宅氏は徳川家康の家臣になり明治の廃藩置県まで続き、子爵になったそうです。
三宅さん宅のお隣が彦根藩の井伊家の上屋敷で、あの桜田門外の変の井伊大老の籠はここから警視庁のある桜田門まで行って襲われたんですね。屋敷からすぐ近くだと思います。
維新以後から戦前まで三宅坂には陸軍省と参謀本部があり、三宅坂と云えば陸軍参謀本部のことだったそうです。
この通りは江戸時代、厚木街道と呼ばれて、大山へ詣でる街道としてにぎわっていたそうです。
1904年(明治37)には市電が走り出し明治末には渋谷まで通じていたそうです。1968年に廃止になりその後はもっぱら地下鉄とバスが主な交通機関になりました。
40以上年も前になりますが、ニット屋になる前に海外旅行の会社を近くで開業したので、かれこれ40年以上もここら辺で仕事をしていることになりますが、青山通りも随分様変わりしました。
当時、青山学院の向かい側は都バスの車庫でした。事務所が車庫の横だったので一日中バスの出入りと排気ガスの匂いで大変でした。それ以前は都電の車庫で、青山車庫前という駅があったそうです。ちなみに都電は骨董通りの入り口が青山6丁目駅で、骨董通りを通って新橋まで行っていました。今も88番の都バスがほぼこのルートを走っています
公営バスや電車の車庫があったくらいですからかなり広いスペースで、今此処には、こどもの城や国連大学、オーバルビル等の大きなビルがあるのもうなづけます。
戦前は都電が走る庶民の街だった青山は、戦争末期の青山空襲で一帯は焼け野が原になりその後東京オリンピックに向けて拡張工事で今の広さになったそうです。