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高樹町通り(骨董通り)

青山という地名は、このブログの『青山さん宅の青山』で書いたように、青山忠成という人が徳川家康から、『馬で一周した土地を屋敷として与える』といわれて、馬が倒れる迄走らせて拝領した、青山家の下屋敷だったので青山と呼ばれることになったそうですが、今回の高樹町も戦国時代の武将に因むものです。

最近は町名変更ですっかり変わってしまいましたが、昭和31年の地図では、UTOのある南青山5丁目は『赤坂青山南町6丁目』で、すぐ隣は根津美術館辺りも含め『赤坂青山高樹町』という町名になっています。今でも写真のようにここの通りの標識は高樹町通りとなっていて、骨董通りは通称とされています。

高街町通り風景.jpg

高樹町の由来は、江戸時代に高木主水正(たかぎ もんどのしょう)の屋敷があったところでその名前がついたそうです。骨董通りを抜けて六本木通りに入ったところに高速の入り口がありますが、この名称が高樹町で、昔の名残が残っています。
歴史は好きだし、自分たちが毎日仕事をしているところの地主さんというか、もと屋敷の主の高木主水正と言う人はどんな人だったんだろうと興味がわきます。

初代高木主水は尾張に生まれ、徳川氏に使え小牧長久手の戦いをはじめ色々な戦功があったようですが、譜代の名家ではないので徳川家康の物語などにはあまり登場しませんが、 高木家は丹南藩1万石の大名で明治の廃藩置県まで領主で、最後の藩主は13代目で子爵だったそうです。ちなみに昭和天皇の弟君。今の天皇陛下の叔父様の三笠宮さまの奥様。百合子さまはこの高木子爵の次女だったそうです。
丹南藩は私にはあまり馴染みのない藩名ですが、現在の大阪府松原市だそうです。

高樹町通り.jpg

その高木主水の記述を見つけたときはにんまりし、思わずメモしました。
それは、講談社・山岡壮八歴史文庫の第十巻『夢想門の巻』の小牧長久手の戦いのシーンです。小牧長久手の戦いは豊臣秀吉との戦いですね。高木主水正は初陣だったようです。

秀吉との合戦で、家康が・・・・
『夜が明けたらの、なによりも先に堀勢の位置を確かめ、これはこれで、別に攻撃をかけねばならぬ。内藤四郎左と、高木主水は、その用意を』家康が命じているときに、ワーッとどこかで鬨の声があがった。

たったこれだけですが、このシーンを見つけたとき、『アッ、青山の高木さんが出てきた!』と、今までは単なる活字だった歴史の記述が、1人の血の通った武将に出会ったようで、とっても親近感が沸いたのを覚えています。

でも、この山岡壮八の小説は大好きで、今までに3回も読んでいるのに、気がついたのは今回が初めてでした。やはり自分が青山の元高樹町にいることが気づきの元だったんですね。

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