お江戸青山の古地図散歩(2)
高木さん宅で毎日の仕事
江戸の昔が垣間見える江戸切絵図・東都青山で、前回は表参道入口の善光寺から原宿にかけてでしたが、今回は骨董通り辺りの様子です。
現在の銀座線外苑前辺りから表参道、骨董通り一帯は百人町とあります。青山は青山忠成という人が徳川家康から拝領したことで青山の名前の基になったことは、以前この通信で書いたように、ここは青山家の敷地(下屋敷)で、彼の配下の鉄砲隊甲賀衆の組屋敷が大山道(青山通り)の両側に、十数坪から三十坪以内ぐらいの屋敷が並んでいました。ここから江戸城の守りに通っていたんですね。
南青山5丁目辺りが百人町の一部になると思いますが、甲賀と聞くと私はすぐに甲賀忍者が頭に浮かぶのですが、甲賀ゆかりの人達が住んでいたと思うと、「ここら辺の人達は関西弁で生活してたのか?」と、楽しくなります。
この辺りに大きな敷地で山井璞輔というのがありますが、この人のことはよくわかりません。
現在の骨董通りに当たる通りが切絵図には、「主水丁(もんどちょう)と云う」と、あります。ここら辺は高木主水正(たかぎもんどのしょう)という人の屋敷のようです。当社はこの辺りで、私たちは毎日高木さん宅の下屋敷の中で仕事させてもらっているんですね。
弊社の隣のビルの角に標識がありますが、「高樹町通り」と書いてあります。高木が高樹に変わったそうで、骨董通りの突き当りの六本木通りに首都高速の高樹町の出入り口があり、高木の名前が残っていますが、今ではここは一般に骨董通りと呼ばれているので、高樹町通りは消えていくかも知れませんね。
高木主水正正次は初代河内(大阪)丹南藩主。小牧長久手の戦いや小田原遠征で活躍し、後に1万石を拝領し大名になります。正次の父親の清秀は徳川16神将の一人なので大名になったのも頷けますね。以後、高木家は明治維新まで続いて子孫は子爵で、秩父宮様の御妃が次女の百合子様だそうです。
骨董通りと六本木通りの角に富士フィルムの高層ビルがありますが、その袂に長谷寺(ちょうこくじ)があります。大安寺と隣合わせでかなりの敷地で、当時は現在の外苑西通り辺りまであったようです。絵地図にはおおきな伽藍ある屋根と階段のある築山が描いてあります。
長谷寺は曹洞宗の寺で福井永平寺の別院です。入ってすぐに右に観音堂があり想像以上の巨大な観音様を見上げると、外の喧騒の東京を忘れて時間を超越した不思議な感覚になります。お勧めです。
絵地図の表記で気になるのは長谷寺の周りにある「小役人」の表示です。役人は一応武士だと思うのですが、小役人とは蔑んだ言い方と思うのですがお咎めはなかったのでしょうか?