青山・表参道界隈の30年
今から30年前、南青山骨董通りの中ほどにある澁澤ビル6階の10坪の小さなオフィスでスタートしたUTОは、社内経済危機で一時期小金井の自宅に撤退しましたが、その後南青山にもどり、6丁目の「バックボーンハウス」、5丁目の「メゾン青南」、現在の「たつむら南青山」と移りましたが、30年間ずっと南青山骨董通りです。
もう30年、まだ30年かという感慨がないまぜになりますが、社員の一人から自分の生れた年と同じ年と聞いて、そんなに経ってしまい年を取ったもんだと思います。
今はオーダーが出来るカシミヤのUTОとしてお客様に直接販売する製造販売が主体ですが、創業当初はニットメーカーとして全国のブティックや百貨店への卸が主体でした。地方のお店から展示会や仕入れに東京に来られるのは経営者の方や店長さんなどの偉い方々で、実際に当社のニットを販売して頂いている販売員の方に向けて、UTОのある東京南青山とはこんなところですよと知って頂きたくて書いたのがこの「南青山界隈」後の「青山・表参道界隈」でした。
30年青山界隈を紹介してきましたが、当時のことを想い起こそうとしても物忘れがひどくすぐに思い出せませんが、自分が書いてきた通信を改めて読み返すと当時のことが懐かしく想い起こされます。
場所や通りは変わっていなくても建物やお店の変わりように愕然とすることがあります。曖昧な記憶の中、自分が印象的だったことは比較的覚えていますが、時間の経過の中で20年前だったか10年前だったかが、曖昧なことが度々。新しい建物もお店も一週間もすると回りに馴染んでしまい、年齢と同時に記憶力の衰えに悲しくなります。
創業当初頃、この通信で紹介したのが、*第一園芸、だるまや、国連大学校、紀ノ国屋、ヨックモック、*嶋田洋書店、*マリーンクラブと*うすけぼー、和菓子の菊屋、青山墓地、根津美術館、サントリーホール、中華風家庭料理ふーみん、*東京ウイメンズプラザでした。
それから10年経った2001年の「ご案内・青山骨董通り」では、青山通りの紀ノ國屋、骨董通りの角のマックスマーラ、セコイアのある小原流会館とその地下にある台湾家庭料理のふーみん、*ベルサスと*チョコレートのレダラッハ。そして骨董通りの看板だった多くのブティックは何度も入れ替わり名前を思い出せないほどです。
当時のお店は*クロエ、*イネス、*アルベルタフラッティ、*ボス、*ハンティングワールド、*ケンゾー、*ロレックスのエバンス、*パパス・マドモアゼルノンノ、*トラサルディ・・・、懐かしい名前が並びます。 *印は無くなったお店。
骨董通りはお店の出入りが激しい処ですが特にこのコロナ禍で大きな変化があり、 30前からあったニッカビル地下のウスケボーや、ハンティングワールドが退店したのがショックです。