カシミヤニットのカスタムオーダー UTO

2014.1 親孝行したいときに親は無し

*カシミアおやじのたわごと* 

 早いもので、今年一月で母が亡くなってから十年が経ちます。母の訃報に、焦って島原に帰ったこと。悲しむ暇も無いぐらい田舎の葬儀の忙しかったことが思い起こされます。

  父はその前に他界していますが、母はとっても明るくおしゃべりな愛すべき人でした。父はいつも静かで真面目で家族思いで、私の最も尊敬する人です。

 そんな両親とは、高校を卒業して進学で上京して以来ほとんど話をする機会がありませんでした。

 大正生まれの父は戦時中、中国の揚子江沿いの重慶や武漢という街で商売をしていたそうです。けっこう大きな店を構えていて、長崎と上海をよく行き来していたらしい。戦争が終わって、貯金していた1万2千円が帰ってきた。という話を叔父さんから聴いたことがあります。当時は70円あれば立派な家が建ったという。自分の家は貧乏だけど、金持ちだった時代もあったんだと、子供心に思った記憶があります。

  島原の田舎から単身、外地と言われる中国まで出掛けて行き、何店舗かの店を出すまでは相当の出来事があったと想像できます。そして日本の敗戦でそれまでの財産をすっかり無くし、引き上げてくるという、まさに僕の想像を絶する経験をしたに違いないと思います。

 父にとって波乱万丈の人生だったと想像できる年齢と自分なりの経験を積んできた今。父が生存していれば是非聴きたいと思いますが、父亡き今苦労話や自慢話を聴けないことが残念でなりません。

 父から話を聴いた頃はまだ幼くて子供が喜ぶような、「池の畔にアヒルを何千羽も飼っていて、池に小船を浮かべていると、翌朝小船いっぱいに卵を産んでいるんだよ」というような突拍子もない、中国のスケールの大きな面白い話をしてもらったことを覚えています。

 20代の頃、「世界を見たい!」と言う思いで旅行屋になり、海外を飛び回っていました。一人で降り立ったアフリカ・ナイジェリアのラゴスでホールドアップにあって膝が震えるほどの恐怖を経験して、その後クーデターが起こり、せっかくまとまった仕事がふいになり、必死で国外に逃げ、外務省から救出指示まで出される事態になったこともあったけど、この無謀な性格も父親譲りだったのかも知れません。

  会社を起こして、難しい経営のただ中にいる今、父の経験や、その時の思いを聴いたりアドバイスを貰いたいと切に思います。そして何より親孝行をしたかった。

自戒の念を持ってお伝えしたいです。

「親孝行、したいときに親は無し」

 

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