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2019.1 ふるさとの世界遺産

 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」という長い名前で世界遺産に登録された、肥前島原はその源となった処でわが故郷です。1637年を「一路南の島原へ」で覚えた年は島原の乱が起った年ですが、島原出身というと、一応に「あ!島原の乱ね」と言われます。

  16世紀、ポルトガル船が九州に来訪するようになると、肥前の大名の有馬晴信は、最初は南蛮貿易をやりたい下心もあってキリスト教徒になり、住民にも奨励し、領地の多くの住民がキリスト教徒になりました。島原半島の南部の口之津にポルトガル船が訪れ大いに賑わい、キリスト教の学校のセミナリオなどが建てられ、この地方にはキリスト教が定着していました。

 

 その後、有馬晴信は事件を起こし失脚して島原半島を追われます。失脚した晴信の後に松倉重政という譜代大名が大和五条から来ました。

 築城が得意で大好きな松倉は、有馬にあった晴信の居城の日野江城と島原の乱で、一揆軍が立て籠もることになる原城の石垣や材料を使って立派な島原城を造りました。私が通った島原高校はお城の三ノ丸にあり、体育の時間やクラブ活動では度々一周1.2キロもあるお堀の周を走らされました。

  島原を出て、日本の他のお城を見て我がお城の大きいことに気づきました。大きいと言っても禄高に比例する大きさで、「島原城は20~30万石の大名のお城と同じぐらい大きい」のです。日本史の先生が、松倉時代は重税で取り立てが相当厳しかったと言っていましたが、松倉の禄高は4万石。年収400万円の課長が、年収3000万円の重役と同じ家を建てたら相当無理な経済状況だと思います。

  松倉の時代に幕府からキリスト教禁教令が出ますが、住民たちは有馬時代からキリスト教徒たちでした。島原の乱は、改宗に対する厳しさももちろんあったでしょうが、分不相応なお城を作った松倉の見栄と趣味と、重税という圧政に対する農民一揆で、その農民がキリスト教徒だったのだと思えてなりません。

  島原の乱以前の約5万人の住民。乱で3万7千人が亡くなり、藩としての運営が出来ず幕府が他から移住を募って藩を維持したそうです。

 島原名産の素麺は小豆島から来た人たちが伝えたそうです。悲惨な歴史が残したものなんですね。

 高校生の頃、強烈な夏の日差しの下、崩れた原城跡にさつま芋畑の緑を思い出します。

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